春時雨 ― 濡れない無限
このページは誰でもコメントを入れたり、リンクを入れたりしてよいNaoki Shima.icon 自分が過去に結晶化(作品として完成)させたものを融解させていくのが思いの外おもしろい…昔の自分が何を思っていたのか徐々に思い出される。新しい創造に繋がりそうな予感Naoki Shima.icon
文章の中のそこかしこに過去の自分の物事の見方が読み取れるNaoki Shima.icon
扉を出ると、ひんやりとした雨の外気に包まれた。空気が洗われたかのように色彩が鮮明だ。実際、大気中のアレルゲンは雨で洗い流された。清浄な春の空気を胸いっぱいに吸い込むと、全身の細胞が沸き立った。濡れたタイルが景色の光や影を反映し、滴る水が新緑を一層艶やかにした。車通りや人通りの少ない、ゆるやかなカーブのかかった沿道で、フードに落ちた雨音だけが聴こえる時間が流れた。
――急に激しく雨水を弾く音がして、前から、わたしより背の少し高い男の子が、傘も持たずに駆けてきた。瞬く間に横を通り過ぎると、後ろ姿は道のカーブで見えなくなった。朝から元気だなと思った。
黒くて骨の多い傘という特徴から男性のものだろうと推察できるNaoki Shima.icon
骨の多いしっかりした傘なので、ビニル製よりは少しばかり値段がしそうな良品にみえる。やはり、雨の中で開いたまま置き忘れるようなものではない。雨の中で傘も持たずに走っていた男の子というのが伏線じみてくる。ゆえに主人公の推察は尤もらしい。真偽のほどは誰にもわからない…Naoki Shima.icon
奇妙な出来事と遭遇したような気配、しかし何か起きるはずもない。そのとき自分は主人公ではない。この作品の主人公は、さっきすれ違った男の子が出てくる別の作品における一風景という存在かもしれない。
日常の中で何か異質なものとすれ違った気がして、そのあと一生関係ないようなそういうことってあるNaoki Shima.icon
実際に何かが起きるとラノベっぽくなるNaoki Shima.icon
急展開を書くのはふつうにめんどくさそうだからしなかったNaoki Shima.icon
というか、この流れから何かが起きるということを俺は書けなかった。俺の可能世界にそういう事態はない。自然ではない。Naoki Shima.icon
気がつくと雨はすっかり止んでいた。まばらになりはじめた雲間から、視界にコントラストを与える日が射していた。フードを脱いで、風を感じた。雨滴がきらめいていた。大気の塵が洗い流されて、目が痒くなるアレルゲンはもう舞っていなかった。もっとも心地のよい晴れだ。歩いてきた道と垂直に交わる大道路の信号で立ち止まった。いくつかの人影がみえた。グレーの冴えない車両が数台、シャリシャリと水気を弾いて走り抜けた。
――青信号。背後からさっそうと自転車が風を切って抜けていった。中央分離帯に近づくころ、前から来た赤いレインコートの子に目を惹かれた。わたしより髪が少し長くて、背は同じくらい。向こうはまったくわたしに見向きもしていなかった。そのとき、何もなければわたしもすぐに視線を外していたのだろう。けれど、奇妙なものを見た。彼女の細い首筋に、シャボンのような淡い虹の光が漂っている。よく見ると、全身の肌に光の模様が漂っているようだ。思わずわたしは立ち止まる。白い肢体を滑るように流れていた光の模様は、徐々に流れる速さを増していく。光の流れがあまりに速く水面のきらめきのようになったその刹那、彼女の躰は周囲の景色を曇りなく映し出す鏡になる。滑らかな曲線に無機的な光沢を併せ持つ異常な肌の質感は、わたしに水銀を連想させる。
ここではこれまで過去形だった文末を現在形に変化させている。加速感がありそうだからそうした。いま出来事が起きてる瞬間にフォーカスさせるNaoki Shima.icon すれ違う瞬間、彼女はわたしに一瞥もしない。ただ、何かをつぶやく。信号は赤に変わり、私は中央分離帯に取り残されている。
思考には始まりがある。私はいつもそれを見ているだけで、いつ始まるのかさえ知らない。